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Joe Lally



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(笑)。そんな風にしてフガジに参加する以前には、ミュージシャンとしてのキャリアはどのような感じだったのかを簡単に教えてもらえますか?

Joe:高校の時に同じアート・クラスの友達と一緒にプレイしたことがあったくらいかな。そのクラスは半日だったから、高校4年になる頃には、1日に2度アート・クラスがあって、5時間アートで1時間英語、それで英語を落第しそうになって(笑)、もう少しで高校を落第するところだった。僕は1日中、絵を描いたり音楽を聴いたりしていて、それしかしてなかったからね。家でも学校でも、そんな生活で。で、アート・クラスの友達だったピーター・コートナー(ダグ・ナスティー)がヘヴィ・ロックとかヘヴィ・メタルをよく聴いていたんだけど、僕がジョイ・ディヴィジョンのテープを聴かせて、それから彼はもっとパンク・ロックを聴くようになったんだ。ジョイ・ディヴィジョンやパブリック・イメージを好きだったおかげで、僕達にもできる、バンドを始められると信じることができたというか……ジョイ・ディヴィジョンやパブリック・イメージの曲にはベースラインがひとつしかないものがあったりして、僕達だってこういうふうになら曲を作っていけるぞって思えたからね。どうすればいい曲が書けるのかはよくわからなかったけど、とりあえず僕にはリズム感があった。僕は拍子を合わせることができたし、楽器を演奏できた。ピーターは演奏はそれほど上手じゃなかったけど、うまい感じに音をつなげることができた。つまり2人で組めば始められたんだよ。それでピーターが歌って、古い友達にギターを弾いてくれと頼んで、ピーターがドラマーを見つけてきて、そのバンドで2回ショウをやった。誰かの家と、誰かの母親がヘアサロンでアート・ショウをやった時、そのヘアサロンでライヴをやったんだ(笑)。やがてギタリストが辞めてしまったから、ピーターの別の友達と一緒にバンドを始めて、また同じことをやった。つまり2回ショウをやって、1回は誰かの家で、もう1回はレストラン。それが僕の(フガジ以前の)音楽経験だよ。あと、ドラムをやったこともあるな。他のメンバーは全員女子のバンドだったから、僕も女の子の格好をしてドラムを叩いたんだ。ライヴと、スタジオでもね。クレイジーな娘たちだったな。それから、僕はしばらくの間ワイノと一緒に住んでいたんだけど、そこにギター・プレイヤーがひとり……ペンタグラムって知ってる?

はい。

Joe:ペンタグラムのギターだったヴィクター・グリフィンも一緒に住んでたんだ。あともう一人、後にアンオーソドックスっていうバンドをやるデイル・フラッドもいたよ。アンオーソドックスは超ヘヴィなロックをやるバンド、ペンタグラムは71年からやってて、もう少しでコロンビアと契約するところまでいってたっけ。あの頃ボビー(・リーブリング)はまだ音楽をやっていて、ヘロインもやってて、夏でもフードの付いた大きなコートを着ていて、本人はガリガリに痩せてたから、まるで死人みたいだった。大きな鼻で、ひげを生やしてね。そんな格好で一緒に座って、狂った声で歌うんだ(笑)。そんなことが僕の住む家で起こっていた。夜はオブセストと一緒に練習したりもしてね。ときにはワイノの手を借りたり、ピーターと僕が一緒に練習する時は誰かにドラムを叩いてもらったり。オブセストのエディは、僕達の2つ目のバンドーー最初のバンドがランチボックスで、2つ目はピットブルっていうんだけどーーその2度目のライヴでドラムを叩いてくれた。そうやって、できる限りのことをやっていたね。

では、イアンと一緒にやるようになってからの話を続けて聞かせてください。

Joe:イアンと一緒にプレイするようになって、色んなドラマーとやってみたよ。最初はダグ・ナスティーのドラマー(=コリン・シェアーズ)とやったんだけど、その後コリンがダグ・ナスティーのツアーに出たからいなくなって、それで僕達はドラマーを探し続けて、ブレンダン(・キャンティ)と一緒にやるようになった。そのときブレンダンはギー(・ピチョット)と一緒にハッピー・ゴー・リッキーをやっていて、いつも2人で一緒にいた。でも、そのうちハッピー・ゴー・リッキーがあまりライヴをやらなくなってきて、ついには活動を停止したんだ。それで、ブレンダンは僕らと一緒にやるのを喜んでいたんだけど、ギーの方は最初フガジの音楽があんまり気に入らなくてね。だから、その時はけっこう難しかったよ。ギーはいつもブレンダンと一緒だったから引き離すわけにもいかなくて、どうしたらいいかってことになり、とりあえずギーは歌だけで参加することになった。ギーはいつもギターを弾きながら歌っていたから、ヴォーカルだけをやるのは初めてだったけど、うまくいくように努力してくれたよ。そんなわけで、ギーがギターを弾かない状態でアメリカとヨーロッパへツアーに出たんだ。その頃ちょうど僕達は最初のEPの曲を作っていて……2枚目もだね、つまり『フガジ』と『マージン・ウォーカー』はその時期に作ったものだ。そして、ヨーロッパ・ツアーを終えた後に、よし、今度はギーにギターも弾いてもらって新しい曲を作ろうってことになって、そうして『リピーター』を作った。そういうストーリーだったんだ。

なるほど。

Joe:それ以前の僕は、ベース・プレイヤーになろうと頑張っていたけど何も起こらなかったから、83年にほんの短い間ドラムをやって、ドラマーとしてでも何でもいいから音楽をやっていく道を見つけようとしていた。とにかく、イアンに出会うまではすごく大変だったね。だからイアンと始めた時がシリアスな音楽体験としては最初だったと言えるかな。音楽をやっていける道が見つかって本当に嬉しかったよ。最初ははっきりした目標もなしに始めたんだけど、とりあえずイアンはレーベルを持っていたし、マイナー・スレットやエンブレイスとかでの経験もあった。当時のイアンは、まず曲を書いてから先のことを考えようっていう姿勢で、とにかく曲を書くことが最重要だったんだ。そしてライヴをやって、人のために演奏すること、それだけが目的で、すごくシンプルだった。フガジとして最初のショウをやるまでに、86年の9月から87年の9月まで1年あって、その間に僕はベースをもっと練習して、イアンはギターと歌を学んでいった。ときどきブレンダンとやったり、ドラマーはいろいろだったけど、この時間があったおかげでフォーカスが定まったし、イアンとの友情も深まったんだ。それで87年〜88年にはイアンと一緒にディスコード・ハウスに住むようになって、本当に“バンド”になった感じで、そこにギーも加わり、僕達は完全にフガジになった。最初の頃、イアンには「ハワイに来てハードコアのフェスに出てくれ」とか、いろいろ奇妙なオファーが来てたけど、僕達はフォーカスがはっきりしていたからそういうのは断って、その代わりにすごく小さなクラブでライヴを重ねていたね。自然なステップを踏みながら、バンドとして成長していきたかったんだよ。それはすごく大事なことだったと思うし、ソロになった現在も僕は同じことをやってると思う。シンプルなステップを踏んで、一貫したラインナップのバンドを見つけようと未だに努力しているんだ。今は、イタリアに住みながらソロ・ミュージシャンとしてどうやったらうまくできるのか、苦労しながら方法を探し出そうとしているんだよ。


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